経済・政治・国際

死刑は『自動化』していい!?

なるほどね。法相にしてもらったのは嬉しいんだけど、自分が書類にハンコをついて『次は(死刑は)君の番だよ』っていうのは寝覚めが悪いから、『自動的』に執行してくれるものなら、こんなありがたい話はないってことね。いちいち次は誰にしようかなあ、なんて考えるのも面倒だし、『乱数表』で決めてくれるなら、『僕』のせいじゃないってわけか。

死刑制度の是非は一先ず置いとくとして、裁判で死刑判決が出たといっても、実際に執行するのは大変な事だ。だが、その大変さの本質は、人の命を法の力で奪うということの重みなんだって事を、法相ともあろうお方がお気づきじゃないとはね!

犯罪の抑止効果として死刑制度を認めるという考え方も、懲罰であるという考え方もあるけれど、いずれにしてもこの大臣のような方が上にいらしたんじゃ、不安で仕方ない。

じゃあ、もし冤罪だったら?『自動的』じゃない今だって冤罪事件はあるけれど、『機械的』にしてしまえばますます刑が確定してしまった人に救いはなくなるだろう。きっと救いたくなんかないのだろう。扱っているのが人の命だと思わない、思いたくないのだろう。

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ミャンマーのこと

自分の身の回りのことしか考えずにいても世界はちゃんと動いている。当たり前の事だけれど。ミャンマーで僧侶達の軍事政権への抗議のデモが活発化していて、何か起こりそうな気配は漂っていた。今回邦人のジャーナリストが犠牲になった事で我が国の中でも関心が一気に高まっている。

軍事政権による弾圧は今に始まった事ではなくて、何年も続いていたわけで、その政権を各国がODAとかで援助していたわけでしょ。ミャンマーの民主化を求める人々はずっとずっと長い間、国際的な圧力で力による支配を終わらせて欲しいと願い、運動してきたはずだ。だが、こんな言い方をして不謹慎だけど、ミャンマー国内でミャンマー人が何百人犠牲になろうとも、はっきり言って多くのお金持ちの国の国民はほとんど関心がないに違いない。彼らが関心を持つのは今回のように自国の国民が犠牲になる時だけなんだろうか。

1989年北京で起こった天安門事件と重なって見える。あの時は僧侶の代わりに学生達だった。学生達の抗議行動の高まりに北京市では戒厳令が布かれた。人民軍が学生たちに銃口を向け、市民を威嚇した。北京市内にいて出国する事さえできずにいた私達家族には、NHKのが以外向けラジオ放送「ラジオジャパン」だけが唯一の信憑性のある情報源で(日本から駐在で来ているNHKの特派員が取材したものだった)、市内の情報を得るには危険をとして自分の足で出かけるか、あとは口コミだけ。当局の流している国営放送局のニュースが最も信じられないものだった。

日本の肉親達はやはりテレビのニュースで事件の様子などを見て、心配で居ても立ってもいられなかったという。怖い映像を見せられては当たり前だ。逆に現地にいた私達は、一体何が起っているのかよく分からない、というのが本当のところ、怖いというよりは不安だった。

あの時の自分たちの事を、あの時の中国の人々の事を、思う。何千という若者達が犠牲になったと(その数は未だに正式に公表されていないと)いう。帰る国のあった私達は混乱から何とか脱出した。だが、現地の人々は統計上の数字になってしまった犠牲者とともにそこに残り(それしかないのだ)、街を国を建て直すためにひたむきに生きた。

人間の命には上下がある。重い命もあれば軽い命もある。それが現実だ。大きな歴史の中では『事件』の中で消えていく命はいつも『数字』でしかないようだ。天災にしろ、人災にしろ。戦争はその際たるものだけれど。

人の命は短い。死ななかった人はいない。結果的に私も軽くて短い命かもしれない。それはまだ分からない、ありがたいことに。でも、それを知るまでは軽くない行き方をしたいものだ。それってどんな?それが問題なんだ…

ミャンマーで犠牲になった方に、彼のご家族に、そして国の民主化を求める人々の思いに、心を馳せていたはずだったけれど、いつのまにか脱線…

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私の厄災の日?

昨日は私にとってはほとんど厄日といっていいような日で、散々だったけど、一番ついていなかったのはきっと安倍さんだったんでしょう。首相辞任です。

在任中も冴えなければ、辞任劇も冴えなくて、ほぼ一年日本の首相だったというのにきっと海外ではろくにニュースにもならないんだろうな。そもそも、今の日本のprime ministerが誰であるかもあまり知られてないに違いない。うちの娘は絶対に知らない。これは確かだ。(だからと言って世界の他の国の人々が知らないと言う基準には全然ならないけど。)Koizumiの後は誰だっけ?みたいなね…

アメリカでは…何やってんだろ?
えっと、イラク情勢がまたまた微妙で(まあ、ずっと微妙なんだけど)、この9月にも米大統領は部隊の引き上げの検討を迫られるのかなあ、なんて話があったような気がするんだけど。そんな次元ではおそらくなくて、いまや後どのくらいの期間部隊は駐留を続けるのか(10年とか?)、あとどれだけの人員が必要なのか、そんな議論をしているらしいから不思議だ。

在イラク米大使は現イラク政権について、dysfunctional(機能していない)であると批判し、そのイラク首相は反論するのかと思ったら、それを認めちゃったよ!今日のCNN AC360°でしっかりそう認めてた。辞任していく閣僚に理解を示したりしてね。

それと、不思議なのはこの間までスンニ派はアメリカに政権の座から押しのけられてしまったってことで蚊帳の外だったと思ったけど、今はアメリカ軍の最大の同盟軍だというから不思議だ。最もこれはお金で買われた同盟関係だけれど。いつになるか分からないけれど、いつかアメリカがイラクを離れたときに、アメリカ製の武器を持った数の点では少数派のスンニ派が、今度はイラクの中での問題児にならないだろうか?

紛争を鎮めるために武器を持って制圧に乗り出しては、各地に武器と戦いの火種を撒き散らして帰っていくアメリカ軍。一面的には本当に紛争の解決に役立つ事もあったろうが、こんなんでいいのかなあ。アメリカ部隊は撤退したとしても、武器は残っていく。その武器を使って、アメリカ軍に戦いを教わった兵士達はまた紛争を求めて活動を広げる。アルカイダがいい例じゃないか。

戦争して、殺しあって、傷ついた人々を(兵士も民間人も、子供も含めて)病院で治療して―その救命率が98%とかって、今日のニュースで誇らしげに言っていたけれど―一人でも多くの敵を殺そうとして、その傍で一人でも多くの人(敵味方関係なく)の命を救おうとしている。なんてこった…



あした早いからもう寝よ…

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それでも続投?

ピッチャー交代の話ではなくって、安倍首相の話。

昨日の参議院選挙で、改選64議席を37議席にまで減らした自民党。半分近くにまで減ったと言うのは、私の目には、国民から現政権への審判が下ったように見えるんだけど、安倍さん的にはそうじゃないのかな?

衆議院と違って参議院は首相を選ぶわけじゃないから、論理的には衆議院で選出された安倍さんが首相を続けるのに問題はない、と言うのだろうか。

でもそれは居直りじゃないのかな?

安倍政権誕生後初めての国政選挙、この参議院選挙以外の一体何を以って、国民は政権に対しての評価を表せると言うんだろう。

衆院であろうが参院であろうが、国政選挙なのだ、政権への厳しい批判と見なければ、国民の意思を愚弄することにならないだろうか?

これほどの惨敗をした後で、『反省すべき点は反省して』ごまかせると思われたら、私は日本人でいるのが悲しい!

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『ダンボール入り肉まん事件は捏造』に学ぶこと

ダンボール入り肉まんの話を最初聞いた時、いくらなんでも食べ物でもないダンボールを混ぜるなんて酷い事があるんだろうか?と信じられない気持ちだった人は、その良識を大事にした方がいいってことか。

ありそうにない話は、やっぱりない。

番組捏造は日本のテレビ局の専売特許じゃないってことか。

それにしても、自国と自国の産業にとってダメージを与えるような捏造事件とはね…

でも今こうして北京市公安局によって『ダンボール入り肉まん』事件が捏造だったと公表されたわけだが、それで人々は「そっか、中国製肉まんは大丈夫なんだ、安心して食べよう!」と思うだろうか?地元の人たちは別として、少なくとも海外の消費者には十分すぎるほどのマイナスイメージが焼きついただろう。これで、肉まんに対する、いや中国産の食品に対する信頼回復がはかれた、とはとてもじゃないが思えない。

むしろ、このことで分かったのは、テレビもやらせだってこと!

国の内外で波紋を広げている『食品その他の製品の安全に疑問あり』、の中国製製品だが、報道もまやかしだった!―その話は別に信じられないような話じゃなくて、どこの国でもいつの時代でも報道による捏造時間は絶えることがない。

それにしても近年の中国製商品やさらには中国人に対するバッシングには胸が痛む。短い期間だったとはいえ激動の時期の北京に駐在した事がある我が家としては、あのときの中国・北京の人々が好きだったし、お世話になった人々に今も感謝している。娘が初めて歩いたのも、意味のある言葉を学んだのもあの広い大地だった。

こんなんじゃないんだよ、中国ってもっと良い国なんだよ。と知人・友人に弁解するんだけど、みんな冷たい。「時代が変わったんじゃない?」と。

さあ、中国よ、目覚めよ!世界は注目している。著作権違反をしようが、食品に適当に色を付けてごまかそうが、まあ中国製だからね、っと半ば諦めで以って見逃された時代はとっくの昔に終わった。いまや世界経済をリードする大国になったのだから、自分達だけのルールで行動する事は許されないのだ。

北京五輪もすぐそこだ。

…それにしても、中国製のうなぎだって食べる気しないんだけど…

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九間発言…

昨日月曜日珍しく休みだったので週末と合わせて3連休。息子をつれて実家に行って来た。

夫はアメリカ出張中で―ホントはもっと早く帰ってくるはずだったのだが、Northwestが乱れまくりで予定より2日過ぎてご帰国になってしまって、悪かったわ~。留守にしてしまった!

大阪も雨だったと思うけど、あっちも雨で、梅雨だなあ~。でも、大阪のような暑苦しさはなかった。むしろひんやりしていて気持ちよかった。夜は寒いくらいだった。

たった三日だけれど世間から離れていたら、帰って来てびっくり。え!?イギリスで連続テロ事件があったの?何なの九間防衛長官の原爆「しかたない」発言って?

何しろ私の実家の人たちは、テレビを付けっぱなしといっていいくらいよく見るので、テレビ嫌いの私は辟易してしまって逆にテレビの前から遠ざかっていたら、他のニュースソースがなくて、何にも知らなかった!

イギリスのはなしは私にはどうしようもないので、それこそ「しかたない」のだが、九間さんの「しかたない」論は次元の違う問題だよなあ。

どうやら今日彼は防衛長官を辞任したみたいだけれど、彼を含めて、安倍首相も与党の人たちもこれでこの問題に幕を引いて参院選に影響なし、って思っているのかな。

前に柳沢厚労相の『産む機械』発言があったとき、この社会が抱えている女性への偏見を表しているとは言いながら、それでもこの発言にはこの人の個人としての資質が大きく関わっていると思った。こんな人をありがたく厚労相に据えておくべきではないと怒ったのだった。

だが、九間発言は単なる個人の資質では片付けられないのだ。いかにも失言であったということで、被爆者・被災地の人々の気持ちを逆なでしないようにお詫びしてしまったけれど、それで終わりにしてはいけない問題なのに、と逆に不満が募る。

「原爆を落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今、しょうがないと思っている」って言っているんでしょ。

これって、まさしくアメリカが原爆投下を正当化するのに使っている議論なわけ。原爆によって戦争を早く終結させ、結果的に犠牲者が減った、と。

冗談じゃない!原爆の投下がなくても日本の敗戦はとっくに決まっていたし、日本側でポツダム宣言の受諾に問題があったとすれば、『国体の護持』だった。戦争を続ける余力なんかどこにも残っていなかった。

アメリカ側には理由があった。ソ連の参戦だ。ヤルタ会談で、千島列島との引き換えに日ソ中立条約を廃棄して参戦をトルーマンと密約したスターリンは、約束通りドイツの降伏後日本に宣戦布告していた。ポツダム宣言直前に原爆は完成していた。ソ連軍の関与無しに日本を降伏させたかった。

たった一度の砂漠での実験しか行っていなかった原爆は長崎に、広島に投下された物にいたっては、そこが実験地だった。

8月6日広島原爆投下。同年12月までに十数万人が死亡。9日長崎原爆投下。同様に7万人以上が死亡。数字を出すと単なる数の問題になってしまいそうで怖い。罹災直後は生存していても、原爆症によってその後も多くの命が失われ、今なお苦しみ続けている人が大勢いる。

それによって戦争が速く終結し、結果的に犠牲が少なかった、などというのは当時の戦力の実情から言って全く正しくないし、人類に対する犯罪と言っていい原爆を肯定するとは、どこの出身であろうと、どこの国の人であろうと、間違っている。


「しかたない」で済ませてはいけないと思う。そんな事言ったりしても辞めちゃえばそれで終わり、なんて思っている人たちは、この国の平和を、世界の平和を、どうしようと思っているのかな?
日本の平和預けられるのかな?

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従軍慰安婦決議

今日は疲労が蓄積してとってもシンドイ日なんだけど、やっぱりこのことは書いておかなくては。従軍慰安婦問題―。

米下院外交委員会で日本は従軍慰安婦問題で謝罪すべきと圧倒的多数で可決された件。

すでに謝っているのに、何度同じ問題で謝らせるんだと開き直る人たちがいるようだけれど、何度でも謝罪は必要だ。

二つの隣り合った家族がいて、おじいちゃんの時代に大喧嘩をした、というような問題ではない。悪かったのは一方的に日本であって、慰安婦として戦地に送られ青春を犠牲にされその後の人生を大きく狂わされた何万人もの女性達はその犠牲者なのだ。

第一この『慰安婦』という呼称からしてばかげている。
英語にしてみよう。
comfort women?『癒す』ってわけね?
実際はsex slavery『性奴隷』が実態をあらわした表現だ。『慰安』だと思っているのは、日本側だけで、他の人たちははっきりと『奴隷』だと言っているのに。

第二に、日本が犯した過ち、というような表現がなされるけれども、この『過ち』という言葉は、とても誤解を生みやすい、というか、日本語特有の責任をあいまいにする表現で正しくないと思う。
これも英語にするとmistake? error?fault?
おかしいでしょ?誰が悪かったの?日本でしょ。単なる過失じゃない、明らかにこれは
wrongであり、evilなのだ。
『過ち』ではなく『悪』とはっきり言うべきだ。

償わなければならないのは、単なる『過ち』ではなく『、悪』なのだ。その許しは、時がもたらしてくれるのだろうか?謝罪の回数だろうか?それは『悪』を犯した側で、もう十分と決める事が出来る問題なのだろうか?

人によっては許しの裁きは神のみぞ下すことが出来るというかもしれない。『あなたを許す』と言えるのは被害者の側であって、それ以外の第三者やまして加害者の関係者ではありえないと私は思う。

沖縄戦での集団自決で『日本軍の強制がなかった』説の時にも私は怒ったけれど、今回もまた怒りが湧き起こる、というか、もう、情けない。どこをどう考えれば、慰安婦が強制でなかったなどと今さら言い抜け出来るの?

彼らに賃金が支払われていた?彼らを国家から資格を与えられた売春婦であったかのように言っている人もいる。どこまで彼らの心を傷つければ気が済むのだろう。

こんな人たちが国を動かしているのだ。何度口先で謝られようが、怒りは消えるはずもない。傷は癒されるはずもない。本当に癒されなければならない人は彼らなのに。

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6月4日の思い出―その6

事件から4日目の6月7日―

事態はどうなっているのかは私達にはほとんど分からないままに、時間が過ぎていった。アパートから見る限りでは街は静かなままで、ホテルの服務員の出勤状態も以前悪いままだった。街全体が息を潜めて事の成り行きを見守っている感じがあった。

北京国際空港は前日に閉鎖が解かれた。北京に居た外国人は続々と出国しているというニュースが入った。

私は、幼い娘と一緒にアパートの窓から街を眺めたり、残っている日本人の奥様達と口コミ情報を交換したりするだけの日々だった。夫はとりあえず毎日、会社事務所のあるホテルに出かけて行った。仕事は大切な機材を展示会場から運び出して来る事の他には大してなかったのだろう、タクシーから街の様子を眺めては、早々と帰宅し(入社以来後にも先にもあんな事は初めてだった!)、ひたすら家で寝ていた。

そういう姿に、この人は何にも気にしていないのかな?と疑いを持つ私。

しかし、意外にも何か考えてはいたのだった。

その日、会社事務所から電話して来て、パスポートが返ってきた、と言う。詳しくは戻ってから話すよ、でも、これで出国できる、と知らせてきた。これで私の周りで事態が動き始めた。

いや、みんなが動き始めていた、と言った方がいい。大手のS建設会社からの駐在員のYさんが電話してきた。帰国するための航空券を買い求めるためにJALの事務所に行くから(そこまで行ってくれると言うタクシーをようやく捕まえたのだと言う)、よかったら我が家の分のチケットも一緒に買ってきてあげようか、と。ただし現金が(円で)手元にあればだと。

銀行は当然のごとく閉鎖されたまま。たまたま2ヶ月前に日本に一時帰国したときに下ろしておいた円があった。片道一枚分プラス娘の分が出るほど。仕方ないので、私の分と娘の分だけ買ってもらった。

そして夕方、夫が懐かしい、問題のパスポートを持って帰宅したのである。

目の前にパスポートを見てもにわかには信じられなかった。平穏な時でさえ、なかなか返してくれなかったパスポートである。一体どうやって手元に返ったのか、夫が説明するには―

会社の現地採用の従業員で張君という青年がいる。彼がなんと北京市公安局まで直接出向いて取り返してきてくれた。自転車に乗って。

私:えっ、自転車で?あそこって…

夫:うん、天安門広場のすぐそばだね。

私:自転車で行ったの?危なかったんじゃないの?

夫:まだ発砲が続いているみたいだね、ランダムに撃っているらしいよ。

私:…でも、公安局に行ったとして、それでどうやって私達のパスポートを手に入れたの?(本人でもないし…)

夫:さあ…なんでもカウンターの後ろに積んであったのを持って返ってきた、って本人は言ってるけどね。

こんな具合で英雄的な行為で銃弾をかいくぐって、私達のパスポートを取り戻してくれた張青年だが、本当はどうやって手に入れたのか、今でも不思議なのだ。夫も分からないという。ただ彼は当たり前のように、その日夫のと、私の(娘が併記されていた)パスポートを持って事務所に現れた、らしい。よほどコネがあったのかなぁ、それとも袖の下とか言うヤツが功を奏したのかなぁ、いまだにあれこれ考えてみる。

さて、数時間前にはこの危機を北京市民と一緒に乗り切ろうと覚悟していた私達は、急転直下、帰国する、いや帰国せざるを得ない状態になってしまったのだ。

おまけに、そのまま残るものと思っていた夫も、帰国指示が出て一緒に帰国する事になってしまった。チケットの有無はもう関係なく、とりあえず空港に行って、(費用は会社が負担したんだと思う)臨時便が出るのを待つと。

急に忙しくなった!荷造りをしなくては。とりあえず、着替えだけでいいよね。すぐかえって来るのだし…

翌8日―
私達の荷物は数日分の着替えと娘のオムツだけ。中サイズのスーツケースがたった一つ。私があんなに心配していた食料は、もうほとんど底を付いていたけれど、残っていた僅かのお米は全部炊いておにぎりにした。鶏卵が数個あったのでゆで卵にした。日本からの単身の出張者がきっとお腹を空かせている、と夫が言うので、空港でそれを食べてもらおうと思って。残りのアヒルの卵40個は、夫がホテルの服務員にあげた。(戻ってきたら絶対処理に困るのが分かっていたので、受け取ってもらってほっとした!)

アパートの私達の荷物はそのままだった。ほんの数日だけ、市内が落ち着くまでの間だけ、日本にいるつもりだった。冷蔵庫の電源も入ったまま(中は空だったけど)、戻ったらすぐに前と同じ生活に戻るつもりだった。

空港に連れて行ってくれた夫の馴染みのタクシードライバーに、すぐ戻ってくるよ、と言って手を振った。

空港は大混雑だったが、期待したとおり、臨時便も飛ぶ事になって、あっという間に機内へ…

滑走路を轟音を立てて滑っていくJALの飛行機の中で、初めて日本を意識した。窓の外のつやのない雑木林が広がる大地を見つめながら、妙に悲しかった。私達は外国人だから、何かが起ったら、こうして逃げることが出来る。この国の人たちは逃れる事ができないんだ。混乱が収まるのを待つんじゃなくて、混乱を収めないといけないんだ。中国語の王先生や、子守のアイさんも、張青年も。自由市場のおじさん、おばさんたちも。

何だか罪の意識を感じながら、数時間後私達は東京に戻った。そして、この時は知らなかったけれど、私と娘はこれを最後に北京暮らしとお別れすることになったのだった。

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6月4日の思い出―その5

もうそろそろ収拾をつけないと。

アパートの外を軍の装甲車が行き交い、天安門広場の近くでは散発的な銃声が続いている時、私が一番気にしていたのは、身の安全の確保ではなくて、そう、食料の確保だった。

危機管理意識がさっぱりない、と言うか、そんな言葉が生まれたのがちょうどこの頃と思うけれど、北京は東京の次に治安の良い都市だという伝説に基づいて私達は暮らしていたので、食料の蓄えなんてさっぱりしていなかった。毎日新鮮な野菜を通りの向こうの自由市場に買いに行く、のを日課にしていたので、事件が起って改めてキッチンを見渡して、その買い置きの少なさに驚いた。

ロングライフミルク2本(リットル)、米1,5升、小麦粉500g、にんじん・玉ねぎ・じゃがいも・きゅうり・トマトなど各2~3個、果物(バナナとオレンジ)2~3個、冷凍室にチキンが若干、ヒレカツ用の豚肉が数切れ。幼児用のビスケットの箱が一箱。

そうそう、鶏卵が15個くらい。そのほかになぜかアヒルの卵が40個くらいあった。

なぜアヒルの卵かというと、長い話を短くすると、要するにもらい物。

もらったは良いけれど、アヒルの卵ってどうやって食べるの?くれた人はピータンにでもする気で買ったのだろうか?確かに私も夫もピータンは好きだけれど、生のアヒルの卵をもらっても、どうやって加工するのか分からないし…アヒルって鶏の卵と同じ味する?

なんて事を思いながらも、最後はこれも貴重な食料と心に刻んでおいた。

交通の遮断、市場の閉鎖がどのくらい続くのか分からない中で、我が家のキッチンにある食べ物は私にとってはあまりにも乏しく思われた。

とりあえず、数日分のお米はあるな。牛乳もあるから娘に飲ませる事が出来る。それとバナナは彼女のもの。お米がなくなったら、小麦粉でパンが焼ける。けど、すぐなくなっちゃうなあ。そうそう、卵がある。卵はいっぱいある。アヒルのだけどね。

数日もすればきっと何らかの方法で食料を手に入れられるさ。それまで何とかつないでいくしかないなあ…

ところで私はその時二人目の子を妊娠していて4ヶ月。実はつわりですごく偏食していた。物を食べられないというのじゃなくて、お腹がすくと吐き気がする、常に食べていたいという、この状況の中で実に都合の悪いつわりだった。しかも、食べたかったのは、リコーラとか言う香港製のキャンディーで、お菓子事情の悪かった当時の北京で唯一私が口にする事のできた嗜好品だった。(それ以外の中国製のキャンディーを試しに食べてみたけど、吐いてしまって受け付けなかった。)

このリコーラが2~3本あったと思う。1日1本の割りで食べて私は、リコーラをなくすことが何より耐えられない気がした。リコーラは心の支えだった。事件が起ってから私はリコーラを節約し始めた。

リコーラの他にはトマト。北京のトマトはおいしかった。畑で採ったトマトの香りがして自由市場で毎日買った。私がトマトを好きなのを知っている農家のオバサンが、いつも私のために特にきれいなのをリザーブしておいてくれて、私の顔を見ると物陰に隠しておいたヤツを『取っといたよ』と言って出してくれるのだった。

あの頃の私はリコーラとトマトで命をつないでいたと言っても過言ではない。

でも、人間何とかなるものだ。

それに、思わぬ所から救いが訪れる事もある。

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6月4日の思い出―その4

前にも書いたけれど、当時の中国では事が起った時に最も当てになる情報源は『口コミ』であった。テレビは政府・北京市当局の発表を繰り返すだけ。うちでは新聞は『人民日報』と『北京晩報』の2紙を取っていたけれど、事件勃発後は読んだ記憶がない。(私の場合は『読む』なんてものじゃなくて、見出しと写真を見て推測し、夫に概要を翻訳してもらっていた。)交通網が断たれた状況では配達は無理だったと思う。たとえあったとしても内容はテレビと変わらなかっただろうけれど。

そんな中で『口コミ』の威力はすごかった。そんな事を言うと、インターネットもないような時代に何を言っていると思われるかもしれないが(それどころか一般家庭には電話さえ引かれていなかった!)、情報の伝達の速さで言えばどんなコミュニケーション手段にも勝るとも劣らないと思った。情報の正確さを競うなら、ネットの方が優れているとは言えないし、その有益性を問うならばネットの方が分が悪い時もある。

とにかく、人々は政府・北京市当局の発表を信用していなかった。公式発表、死者20数名なんて、誰が信じただろう。信頼に足る『口コミ』は行方不明者数千人でその多くは死亡、と言っていた。

私も事件以降、この『口コミ』にお世話になった。大事なことは全部知り合いによって教えられた。そのひとつがこれ―事件から2日後の6月6日の夜、北京市北部の複数の大学に軍の強行突入が予定されている、というものだった。

軍は天安門広場に集結していた学生達をほぼ制圧した。しかしその学生達の活動の拠点は各大学にあり、特に活発だった北京市内の大学の多くが集中する地域は天安門広場の次の攻撃の矛先として狙われている。大学内に軍が強行突入する日は、6月6日らしい、というのだ。

このニュースは私達のアパートの残り少なくなった日本人家族の間では実しやかに語られ、皆一様に不安を口にした。アパート楼は学生街に近く、窓の外を走る幹線道路と、アパートを隔てるのは低い塀だけ、急襲を逃れようと学生達が侵入してきたり、あるいは攻撃のとばっちりを受けたりする危険は大いにある、と。

特に我が家はほんとに角地にあったので、知り合いは避難を勧めた。ホテル楼は空き室がいっぱいあって、道路から離れた所に移ることが出来るから、ぜひそうしなさいよ、小さい子供もいるんだし、と。ホテルの敷地は巨大なので、確かに道路と反対側はもっと平穏そうだった。

この話を、夫にすると
夫:うーん、確かにそれはありそうな話だなあ。少なくとも、うちは全室道路に面しているからね。危ないかもなあ。
私:ホテルの方に移らせてもらう?そうしている人たちも何家族かあるらしいし。○○さんとか、○○さんとか。
夫:うーん、そうだなあ。でも、(移らなくても)いいんじゃない?6日にほんとに突入するかどうかは分からないけど、そういうことがあったら、その時はお風呂場にでも逃げようか。お風呂場で家族3人十分に寝られるよ。(このアパートはほんとにお風呂場が広くて、脱衣スペースにベッドが余裕を持って置けるほどだった。)
私:『その時』が来てから逃げたんじゃ遅いかも…

きっとこれは夫の長所なんだと思うけれど、彼はあまり物事に動じない。ように見せている。性急な行動、というのは彼の場合、無いと言っていい。なんとなく不安に駆られて、というような行動を取るのはきっと彼の価値観に反するのだろう。でも、本音を言うと、めんどくさかったんじゃないかと私は疑っている。連日の過酷な残業で、疲れていて、ただゆっくり寝たかったんじゃないかと。結局、私達はアパートを動かなかった。

さて、今まで安全の問題ばかりを書いてきたけれど、実の所、あの時私が一番心配していたのは、それよりももっと差し迫った問題だった。

身の安全よりももっと差し迫った問題、それはまたあした。

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6月4日の思い出―その3

6月4日の天安門事件勃発の前、記憶が間違っていなければ、4月20日前後だったと思う、北京市内には戒厳令が敷かれた。

広場に集まる学生達が何万人にも膨れ上がり、抗議行動が激しさを増してのことだった。連日、市内の大通りはプラカードを持ってのデモ行進の列が長くなって行った。

週に一度ほど、私はタクシーを使って買い物に出かけていたが、戒厳令の頃には、デモによる交通渋滞は日常的になり、ある時には速度を落としたタクシーの周りをプラカードの学生達に取り囲まれたりした。私の中国語のレベルは悲惨なものだったけれども、『中国』『外国人』『日本人』というような言葉だけ分かった。外国人排除の風潮も出ていた時期だっただけに、タクシーに悠長に乗って買い物に行くお金持ちの外国人―しかも恨み多き日本人―として、窓の外から睨み付けられたようで、さすがにこの時は怖かった。運転手と学生達の短い遣り取りを推測すると「お前も中国人なら、我々の運動を支持して一緒に参加してくれ。」みたいな事だったかも。

ただ、これ以降は買い物は一人で(1歳児の娘同伴で)行かずに知り合いの奥さんとタクシー相乗りで行く事にした。

この頃、同じアパート楼には多くの日本人駐在員家族が生活していたが、大手商社を中心に帰国する家族が続いた。
だが、私達にはそれほど緊迫した事態には思えなかった。(これが、後に『読みが甘い』と批判される事になるのだけれど。)

戒厳令と言うと、日本では我々は経験がないので、少なくとも私の世代は知らないので、発令された時には驚いたし、その響きには戦争や内乱の臭いがして不安になった。みんなはどうしているんだろう、とアパートの窓から市内の様子を眺めたら、普段と変わらぬ人々の様子にちょっと肩透かしを食らった気がしたのを覚えている。

発令の当日、夫と交わした会話―
私:戒厳令だって!それって、大変なんじゃないの?
夫:街の人の様子を見てみろ。きっとみんなびっくりして、緊張してるだろう?
私:(窓の傍に立っていたので、外をのぞいてみる)えーと、楽しそうに露店でアイス買って、歩きながら食べてる。解放軍の制服着た人とか、笑いながらデートしてる。いつもと同じ様に見えるけど…みんな戒厳令出たの知らないのかなあ。
夫:(窓の傍にやってきて)おーい、みんな戒厳令出てるぞー。解放軍はそんなとこでアイス食ってていいのかぁ???(日本語で)

学生達は大いに盛り上がり、でも一般市民は(内心はいざ知らず)特に意思表示を示していない、そんな街の空気。『戒厳令』とは物々しい言葉だが、人々は比較的冷静に受け止めている。怒りの矛先が政府に向いているのが、外国資本、に向けられるとちょっと怖い、その矛先として駐在の金持ち(荷見える)外国人がターゲットにならないとは言えない、とりわけ日本が数十年前に中国に対してした事を思えば、けして私達はここに居て安泰とは言えない、という理解だった。

その上で、敢えて私は娘と共に北京に留まり続けた。

のには実は理由があった…

今は知らないけど、当時は、外国人はビザのほかに居留証を得る必要があった。その更新の期限がちょうどきていて、私達家族全員分の古い居留証と、パスポートは北京市公安局に提出されていた。通常なら2、3週間で更新、のはずだった。でも、当時の(今も?)お役所のすることだ、一体いつ更新されてパスポートを返してくれるのか、さっぱり読めないのが実態だった。要するに私達一家はパスポート無しの状態が続いていた。帰国にせよ何にせよ、中国国外に出られない状態だったのだ。

―――

それで、6月4日の事件後に戻って。

夫と私は顔を見合わせて、どうする?
だって、パスポートないし。
そういう時って、大使館とか、聞いてみたらなんか方法があるんじゃないの?私たち合法的に居留していて、公安局がパスポート返してくれないだけなんだから。

というわけで、とりあえず翌日私は日本大使館に電話した。
私:コレコレと言うわけでパスポートがないんですけど、そういう時どうしたらいいですか?

大使館職員:そういう時はですね、こちらで特別にパスポートに代わる証明書を発行します。
私:ありがとうございます!(さすが、日本国民を守る外務省!と思った。)
職員:つきましては、こちらまでおいでください。
私:は?そちらに行くんですか?

この時の私の気持ちは説明無しには分かってもらえないだろう。なぜなら、在中国日本大使館はどこにあるかと言うと、天安門広場近くの建国門外にあって(その辺りは各国の大使館街だけれど)、事件以来、広場付近は装甲車が行き交い、銃弾がどこから飛んでくるか想像がつかないような状況が続いていた。そんな状況で大使館職員は偉いなあ、ちゃんと出勤しているばかりか、私に自ら出頭しろ、と言ってくれた!

私:あのー、私ね、1歳の子供をつれて、そちらに行く手段が思いつかないんですけど。今こういう状況でしょ。タクシーもホテルに来てないんですよ、(流しはなかった。)たとえつかまったとしても、天安門まで行ってくれるタクシーなんてあると思いません。危険ですよね?
職員:そうですね。でも、来ていただかないと証明書は発行できませんよ。
私:でも、こういう状況ですから、特別措置とかってないんですか?空港ももうすぐ閉鎖が解かれるみたいなので、直接空港へ行けばそこで発行していただけるとか。
職員:いやー、それは無理ですね。どうしても大使館に来ていただく必要があります…

この話をすると夫は怒ったけれど、私だって『一体誰のため大使館だ。邦人保護のためにあるんじゃないの?』と思ったけれど、帰国は無理っぽかった。
パスポート無しで出国は出来ません。帰国したかったら、危険を冒して大使館までおいで、と言われたのだから。

事件翌日、私達夫婦は北京に残る覚悟を決め、事態が落ち着くのを待つことにした。


この続きは明日…だんだん長くなっていく。どうしよう。明日は終わるかな。

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6月4日の思い出―その2

そうそう、昨日の続き。

1989年6月4日日曜日未明北京市天安門広場の上空は赤く染まっているのが、私達のアパートの窓から見えた。

当時北京の夜は暗かった。東京の夜景に慣れた私にとっては、異様なほど暗かった。主要道路には街灯はあった。薄暗かったけれど。でも、窓から街を見渡すと、その橙色の光以外に、色の付いた明かりは何もなかった。ネオンはゼロ。少なくとも風景の中には存在していなかった。全体としての夜の色は黒。とにかく暗かった。夜の空は暗いのだとここで知った。

その北京の空が、天安門広場の方角に、赤く染まっていた。

「ねえ、空が赤いんだけど。それにあれって銃声だよね。なんか大変な事になってるんじゃない?」私は傍で熟睡している夫を起こして言った。夫は「うーん…。大変だぁ。」とつぶやいて、ちょっとだけ起きるそぶりをして、それからまたいびきの世界に戻って行った。展示会の準備のために連日深夜まで残業が続いていて(その甲斐あってようやく準備も終わって)、疲れきっていたのだ。

自分達の身が危険な状況とは思わなかったけれど、だからといって、私はとてもじゃないが夫や1歳半の娘のように眠れる気分じゃなかった。仕方がないのでそのまま、夜が明けるまで遠くから響くただ事ならぬ音を聞きながら空が明るくなるのを待った。

当時北京市内にいた私たちのことを歴史の証人のように呼んでくれる人がいるが、現実にはそれは間違いだ。私達は正確な事は何も知らなかった。(正確な事を知っていた人がいるかどうかは分からないけど。)物騒な音を聞き、様子を目にし、アパートのすぐ傍の幹線道路を軍の装甲車が轟音を立てて走っていくのを見ていても、実際に何が起っているのか、あの街にいては知ることは困難だった。私がここに書いておきたいと思ったのは、自分で体験した事だけである。事件の検証や、歴史の記録は私の能力を超えているから。

朝になって、ようやく起きてきた夫とテレビをつけても事実を知る事は出来なかった。テレビでは政府が発表した天安門広場で起った学生の暴動を解放軍が制圧して、20数名の死者が出たという声明を繰り返しているだけだった。

こういう事態になって唯一威力を発揮したのは、NHKがやっているラジオジャパンという国際放送で、当時中国向けには2時間に一回ニュースが流れていた。この事件の前からだったと思うけど、中国情勢が緊迫化してきたというので、1時間に1回の放送に変わったと思う、このラジオジャパンで天安門広場が大変な事になっていて、その周辺は人民解放軍に包囲されていて、学生の死者も政府発表とは比べ物にならない、少なくとも数千の単位と言われているのを知った。

当時北京には北京日本人会というのがあって、その会のどなたかが、電話をくれた。分かっている限りの情報(これはラジオジャパンのニュースと同じもの)と、北京空港は封鎖されている、ということを伝えてくれた。

私達が住んでいたのは外国人に居住を認めた歩テルの中にあるアパート楼だったので、幸いに電話回線が引かれていて、市内通話は直通でできたように思う。だが国際電話は交換を通さなければならず、普通の状態だと、日本に電話をしたい時にはこのようにした。

1.交換台を呼んで(交換台ってわかるかなあ、オペレーターの事であります。)、「日本に電話したい」って言って、申し込みをする。

2.回線が空くと、オペレーターがこっちにかけなおしてくれる。回線が空いたから、国際電話が出来ますよ、ってね。この間の待ち時間はその時の込み具合で決まる。早いときは30分ぐらいで、普通の週末だと1時間ぐらいだったろうか。

3.それからようやく、相手の電話番号と名前を伝えると、オペレーターが相手を呼んでくれて、日本の方で電話が鳴る、というぐあい。

日本で事件が報道されているようだから、きっと親達は心配しているだろうと、電話を申し込んでおいた。さてオペレーターから電話がかかってくるのに何時間かかることか、と思ったけれど、案の定午前中に申し込んで夕方になってようやく応答があった。

ところで、私達夫婦は大体のんきだったから、または、夫は身重の私と幼い娘の身を守るという事にそれほど熱心でなかったからか、事件の日の朝、夫が一番にした事は市内を見ながら会社に出勤するということだった。

準備したばかりの展示会(おそらくこれは中止になるだろう、あんなに昨夜遅くまでかけて頑張ったのに…。)について本社の指示を仰がなければならないだろうし、それに天安門広場にほど近い市内中心部にある会社の建物がどうなっているか、駐在員としては責任もあるからね。ホテルに待機していた馴染みのタクシードライバーを口説き落として、夫は市内見物、もとい、視察に出かけた。

(そして思ったとおり、展示会は中止。夫は今度は片づけで大忙し。)

視察した夫によれば、幹線道路はいたるところでバリケードによって寸断されていて、そのバリケードには(北京名物の)トローリーバスが横倒しにされて、燃されていた。ある歩道橋では、人が逆さに吊るされていた(生死は不明だった)。そういうバリケード以外は、普段なら自転車で溢れている通りは人影はなくひっそりしていた。

アパート周辺。市の中心部から離れていたとはいえ、市中を走る交通が寸断されている状況の中で、ホテルに出勤してくる服務員(従業員)は少なかった。ボイラーマンは出勤していたようでお湯は出た(温度は一定じゃなかったけれど、それはいつものこと)。場所によっては、それもない所があったらしい。いつもの散歩件買い物ルートの自由市場は閉鎖。学生達だけではない、市民全体が軍の攻撃に怯え、交通網は遮断され、市民生活はほぼ停止状態なのが分かった。

北京に残っている駐在員家族は、数週間前から実はかなり減ってきていた。大手の商社などでは家族だけ帰国させるケースが多かったから。その結果、アパートには空き室が多くなり、噂では通りに面していない部屋に当面避難する人たちが増えているという事だった。私達のアパートは通りに面しているどころか、幹線道路が交差する角地に立った、しかも角部屋で、どの部屋も窓もすぐ下の道路を装甲車が行き交っていた。小さい子供がいるのだし、別のアパートに避難する方がいいのではと、勧められもした。

本社は本社で、駐在員の家族は空港閉鎖が解除され次第、帰国させるように指示してきた。つまり、私と娘は帰国せよ、と。

事件当日の夜、夫と私は、どうする?と顔を見合わせた。

実は、はい帰国します、と言えない事情があった…

(続きは明日)

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6月4日の思い出―その1

記憶が薄れてしまう前にいつかは書いておきたかった。

ほんとは一昨日書こうと思っていたんだけど、いつもの様に何に付けても時期を逸してしまう私の事だから。天安門事件から18年―

大災害や凶悪犯罪、大規模テロ事件と、大事件が頻繁に起っている(ように感じる)昨今ではもう風化してしまったかのような出来事だ。若い人たちは知らないし、ある程度の年齢の人たちでも、覚えている人はそんなに多くないのかも。

あの時1歳半だった娘は19歳。まだ私のおなかの中のゆりかごに揺られていた息子は17歳だ。毎年6月4日が来ると私と夫がその話をするので、彼らはいいかげん聴き飽きたと言っている。娘はきっと覚えているはずのない北京の街の記憶までが出来上がっているに違いない。

1989年6月4日日曜日、未明。2万人もの学生達が政府への抗議のために集まっていた天安門広場に軍隊(人民解放軍)が突入して、学生達に発砲・攻撃した。学生達は武装しておらず、軍・政府による一方的な殺戮だった。2千人とも4千人とも言われる数の学生達が命を落とした。

前日の土曜日、昼間からすでに軍の部隊と市民の間で小競り合いがあって犠牲者が出た、という口コミがあった。当時私に中国語を教えるためにアパートに来てくれていた家庭教師の王先生が「きっと今夜から何か起る」と街中の噂を教えてくれた。

ちなみに、当時の中国では市民にとって主な(最も重要な)情報源は『口コミ』だった。テレビ・ラジオ・新聞は政府・中国共産党の報道しか流しておらず、(インターネット以前の時代なので)、一般市民の家庭には電話も引かれていないのが普通で、人々は口コミに頼る以外なかったのだが、この速い事と言ったら、鬼火のような速さで、と言っても過言じゃないと思う。一体どこからそんな情報が?と思うほどの速さで情報が伝わっていた。

あ、そうそう、あと、壁新聞。日本の人たちは壁新聞って言ってもピンと来ないと思う。小学生の時に学校でつくったヤツ、とかいうイメージ?当時の中国では政治的主張をするのはいつも壁新聞だった。きっと学生が多く作っていたんじゃないかなあ。(ここはあやしい…)

ベビーカーに娘を乗せて買い物・散歩をしている時にもよく街のあちこちに見かけた。多くの人たちが周りに集って読んでいる光景を見た。私の中国語ときたらとてもじゃないがそのレベルじゃなくて何が書いてあるのかさっぱりだったけど。

それで話を戻して、口コミによってすでに前日の土曜日から街は物騒な空気が流れていた。何かが起ろうとしている、というのはみんなの共通した認識だった。ただ、あの時政府と対立していたのは主に学生達だった。北京大学など、首都の各大学を始めとして、地方の大学に通う学生達も続々と天安門広場に集結して、自然発生的に何万人という規模に膨れ上がり、連日集会、デモ行進で政府への抗議姿勢を示していた。全体の運動を指揮統合するような圧倒的なリーダーは不在で、一般市民は感情的には支持していたむきもあったろうが、それが内乱に結びつきそうな気配はなかった。学生達はいたって平和的に、武装することなく集会・行進するだけだったから。

事件のしばらく前に出された戒厳令の後、政府とも対話も進みだすのでは、という観測も生まれて、地方からの学生達は地元に帰って行ったりして、広場の学生達の数も減り始めていた。政府は極端手段には出ないだろう、学生達も妥協していくだろう、というのが口コミによる情報だった。そんな中で、中国政府は学生達の起こした『暴動』に戦車に乗せた『人民解放軍』を送り込んだのだった。

3日土曜日の午後、私は住んでいたアパート楼のあるホテルの庭を歩いて人通りが少ないのに驚いた。もっとも、戒厳令後に多くの海外企業の駐在員家族は一時的に中国を離れ始めていた。日本人の奥様達もずいぶん減っていた。だが、従業員さえも少なかった。いつものように通りの向かいにある自由市場に野菜を買いに行ったら、売りに来ている農家の人たちが少ない。隣の公設市場に行ったら、こっちはやっていた。あまり野菜がなくて、卵だけ買って帰った。

私達のアパートは天安門広場は相当離れていたけれども、不穏な空気は町中に溢れていた。深夜に帰宅した夫が、「うーん、大変な事になりそうだね」(彼は翌週月曜からの大きな展示会に向けて連日遅くまで仕事漬けだった。)と言って、そのまま寝てしまった。私一人寝付けずにいると、遠くの方からなにやらうなるような低い音と、パーン、パーンという音がしてそれが止まない。起き上がってカーテンを開けると(4階に住んでいた)広場の方向の空が赤く染まっていた。

長くなってきたので、続きは明日。(たぶん)

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国民投票法案衆院通過

10日からの対ドラゴンズ3連戦で阪神が2勝1分けと負けなかったからといって、たいしたもんだなあ、なんて浮かれている間に、衆院では国民投票法案だ。今日衆院を通過した。

国民投票法がフォーカスされるようになったのは安倍内閣になってからだから、国民の間に浸透するまもなくあっという間の出来事だ。とは言っても保守勢力は何十年にも亘って改憲論議―特に9条をめぐる論議を広げていたわけで、彼らにとっては、いよいよこれが第一歩ということになるんだろう。

なんて言って気楽に構えている場合ではないと思う。

日本が外国に誇る事のできる最大のものがこの平和憲法であると信じてきた私にとっては、(願わくば私は多数派と思いたいけれど)、国民投票法は単なる手続法という以上に薄気味悪い存在だ。

9条については、日本の自衛権を積極的に(集団的自衛権を含めて)本来的に認めている、という主張から、名前がどうあれ自衛隊そのものが軍隊であり認められない、という主張まで、議論の余地のあるものだった。それゆえに、政権によるあれこれの(飛躍した)解釈の末に自衛隊を戦闘地に派遣までした。

だがこれまで日本を平和国家としてきたのは、とにもかくにもこの9条と前文を含む憲法が砦となっていたからだ。これまで様々の改憲論議があった時にも、護憲派も実は心の中で憲法を変えるのは容易でない事を知っていたので、現実味をあまり感じなかったのではなかろうか。

だが、明らかにこれは今までとは違う。国民投票法以前と、それ以降―。

国民投票法にたいするスタンスは大きく分けて3つあるんだろう。いまさらだけど。

1.改憲のために賛成派。憲法を変えるためには憲法自身の規定により、衆参各院の3分の2以上の賛成のうえにさらに国民投票による過半数の賛成が必要だからだ。2.国民投票法には賛成だけど、今の争点―9条の改正については反対。3.憲法改憲に反対なので反対派。

その3の人たちにとっては大打撃だけれど、考えてみれば、これは、むしろ国民全体が憲法について、平和への貢献の仕方について正面から問われる絶好の機会と言えないだろうか。

長年の平和に慣れてしまった国民の多くは戦争を知らない世代となって、いつしか平和憲法が自らの選択ではなく単なる背景のようになってしまっていた。一般的に戦争に加担しないのはいいことだというコンセンサスはあっても、どういう形で世界平和に貢献するのか、意思表示をする機会はなかった。

ある意味で、これはチャンスだ。国民にとって。

個人的には私は改憲には反対だ。『自衛のための』なんて限定付であっても交戦権を認めたりするようなことになれば、何が『自衛』かはきっと将来的に拡大解釈されることになる。解釈の仕方は時の政権にお任せになる予感がする。

それでも、選挙では正々堂々とこれを争点にして欲しいものだ。今まで見たいに争点隠しの選挙しないで欲しいと。

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