そうそう、昨日の続き。
1989年6月4日日曜日未明北京市天安門広場の上空は赤く染まっているのが、私達のアパートの窓から見えた。
当時北京の夜は暗かった。東京の夜景に慣れた私にとっては、異様なほど暗かった。主要道路には街灯はあった。薄暗かったけれど。でも、窓から街を見渡すと、その橙色の光以外に、色の付いた明かりは何もなかった。ネオンはゼロ。少なくとも風景の中には存在していなかった。全体としての夜の色は黒。とにかく暗かった。夜の空は暗いのだとここで知った。
その北京の空が、天安門広場の方角に、赤く染まっていた。
「ねえ、空が赤いんだけど。それにあれって銃声だよね。なんか大変な事になってるんじゃない?」私は傍で熟睡している夫を起こして言った。夫は「うーん…。大変だぁ。」とつぶやいて、ちょっとだけ起きるそぶりをして、それからまたいびきの世界に戻って行った。展示会の準備のために連日深夜まで残業が続いていて(その甲斐あってようやく準備も終わって)、疲れきっていたのだ。
自分達の身が危険な状況とは思わなかったけれど、だからといって、私はとてもじゃないが夫や1歳半の娘のように眠れる気分じゃなかった。仕方がないのでそのまま、夜が明けるまで遠くから響くただ事ならぬ音を聞きながら空が明るくなるのを待った。
当時北京市内にいた私たちのことを歴史の証人のように呼んでくれる人がいるが、現実にはそれは間違いだ。私達は正確な事は何も知らなかった。(正確な事を知っていた人がいるかどうかは分からないけど。)物騒な音を聞き、様子を目にし、アパートのすぐ傍の幹線道路を軍の装甲車が轟音を立てて走っていくのを見ていても、実際に何が起っているのか、あの街にいては知ることは困難だった。私がここに書いておきたいと思ったのは、自分で体験した事だけである。事件の検証や、歴史の記録は私の能力を超えているから。
朝になって、ようやく起きてきた夫とテレビをつけても事実を知る事は出来なかった。テレビでは政府が発表した天安門広場で起った学生の暴動を解放軍が制圧して、20数名の死者が出たという声明を繰り返しているだけだった。
こういう事態になって唯一威力を発揮したのは、NHKがやっているラジオジャパンという国際放送で、当時中国向けには2時間に一回ニュースが流れていた。この事件の前からだったと思うけど、中国情勢が緊迫化してきたというので、1時間に1回の放送に変わったと思う、このラジオジャパンで天安門広場が大変な事になっていて、その周辺は人民解放軍に包囲されていて、学生の死者も政府発表とは比べ物にならない、少なくとも数千の単位と言われているのを知った。
当時北京には北京日本人会というのがあって、その会のどなたかが、電話をくれた。分かっている限りの情報(これはラジオジャパンのニュースと同じもの)と、北京空港は封鎖されている、ということを伝えてくれた。
私達が住んでいたのは外国人に居住を認めた歩テルの中にあるアパート楼だったので、幸いに電話回線が引かれていて、市内通話は直通でできたように思う。だが国際電話は交換を通さなければならず、普通の状態だと、日本に電話をしたい時にはこのようにした。
1.交換台を呼んで(交換台ってわかるかなあ、オペレーターの事であります。)、「日本に電話したい」って言って、申し込みをする。
2.回線が空くと、オペレーターがこっちにかけなおしてくれる。回線が空いたから、国際電話が出来ますよ、ってね。この間の待ち時間はその時の込み具合で決まる。早いときは30分ぐらいで、普通の週末だと1時間ぐらいだったろうか。
3.それからようやく、相手の電話番号と名前を伝えると、オペレーターが相手を呼んでくれて、日本の方で電話が鳴る、というぐあい。
日本で事件が報道されているようだから、きっと親達は心配しているだろうと、電話を申し込んでおいた。さてオペレーターから電話がかかってくるのに何時間かかることか、と思ったけれど、案の定午前中に申し込んで夕方になってようやく応答があった。
ところで、私達夫婦は大体のんきだったから、または、夫は身重の私と幼い娘の身を守るという事にそれほど熱心でなかったからか、事件の日の朝、夫が一番にした事は市内を見ながら会社に出勤するということだった。
準備したばかりの展示会(おそらくこれは中止になるだろう、あんなに昨夜遅くまでかけて頑張ったのに…。)について本社の指示を仰がなければならないだろうし、それに天安門広場にほど近い市内中心部にある会社の建物がどうなっているか、駐在員としては責任もあるからね。ホテルに待機していた馴染みのタクシードライバーを口説き落として、夫は市内見物、もとい、視察に出かけた。
(そして思ったとおり、展示会は中止。夫は今度は片づけで大忙し。)
視察した夫によれば、幹線道路はいたるところでバリケードによって寸断されていて、そのバリケードには(北京名物の)トローリーバスが横倒しにされて、燃されていた。ある歩道橋では、人が逆さに吊るされていた(生死は不明だった)。そういうバリケード以外は、普段なら自転車で溢れている通りは人影はなくひっそりしていた。
アパート周辺。市の中心部から離れていたとはいえ、市中を走る交通が寸断されている状況の中で、ホテルに出勤してくる服務員(従業員)は少なかった。ボイラーマンは出勤していたようでお湯は出た(温度は一定じゃなかったけれど、それはいつものこと)。場所によっては、それもない所があったらしい。いつもの散歩件買い物ルートの自由市場は閉鎖。学生達だけではない、市民全体が軍の攻撃に怯え、交通網は遮断され、市民生活はほぼ停止状態なのが分かった。
北京に残っている駐在員家族は、数週間前から実はかなり減ってきていた。大手の商社などでは家族だけ帰国させるケースが多かったから。その結果、アパートには空き室が多くなり、噂では通りに面していない部屋に当面避難する人たちが増えているという事だった。私達のアパートは通りに面しているどころか、幹線道路が交差する角地に立った、しかも角部屋で、どの部屋も窓もすぐ下の道路を装甲車が行き交っていた。小さい子供がいるのだし、別のアパートに避難する方がいいのではと、勧められもした。
本社は本社で、駐在員の家族は空港閉鎖が解除され次第、帰国させるように指示してきた。つまり、私と娘は帰国せよ、と。
事件当日の夜、夫と私は、どうする?と顔を見合わせた。
実は、はい帰国します、と言えない事情があった…
(続きは明日)
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