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新型インフルエンザは水際で止められるか?

新しい感染症が国内に侵入するのを食い止め国民の健康と安全を確保する、と言えば聞こえはいいが、日本政府が躍起になって進めている水際作戦なるものはどこまで有効なんだろう?過去に例のない型のウイルスゆえに誰も免疫を持っていないから、ひとたび国内に侵入すれば重大な疾患が多数の人々に広がってしまう、それゆえ、国の中にウイルスを入れなければいい、というのは確かに道理があるように見える。

でもどうしてなんだろう、私にはいささかこれは非現実的で、しかも少しばかり利己主義のにおいが漂っている。

『水際作戦』は単なる時間稼ぎじゃあないの?

入ってこないようにする、のは良いけど、治療に対しての研究は?

国や地域を超えた人・物の往来が限られていた時代なら一国健康主義も貫けるかもしれないけど、これほどにグローバル化が進んでいる今日では、「海外に行くな」「日本に入ってくるな」規制は現実的とは思われない。

(なにもうちの息子が今週アメリカから帰ってくるから言ってるわけじゃなくって…)

(なにも、娘に会うために来週渡米を予定していたにもかかわらず、夫の会社が北米への渡航禁止を打ち出したことで、泣く泣く延期せざるを得なかったから言ってるわけじゃなくて…)

(なんだか十分に個人的な理由で不平不満をぶちまけている気がする…だってフライトのキャンセル料だけでも頭にきちゃう!
娘は「会社が個人の自由を規制するなんてできないよ!」と反論してきたけれど、もちろんアメリカ人には理解できないだろう。でも、それが日本の今だ。公共の福祉のために個人の自由は制限されるんだ…)

今回の新型インフルエンザ(H1N1)は今のところ弱毒型―もちろん弱毒型だからといって、感染が進む過程で変異を起こして強毒型に変身する可能性はあるのだけれど―で、それなら季節のインフルエンザと比べて特に深刻ではないわけで、通常インフルエンザに対して実に寛容とも思える我が国の、H1N1だけに対する敵視はなんだろう? (毎年インフルエンザの予防接種してますか?学童や高齢者、福祉施設、医療関係者以外はあまりしないでしょ。日本人って。私の経験ではアメリカではかなり多くの国民がインフルエンザの予防接種していたけど…彼らはこの日本の大騒ぎがなかなか理解できない…)

ウイルスはきっと日本に入ってくるよ。変異を繰り返して進化してきたつわものだから。ひっそりと潜伏して、たとえ今回ひとたび諦めても、辛抱強く待っていて、人が思いもつかない形で、あるいは忘れたころに、ひょっこりとね。感染症や免疫学の専門家には一蹴されるかもしれないけど、これは私の勘でしかないけど、患者を簡単に死なせてしまうほど強毒なウイルスは一見怖くてその実、余り優秀じゃあないんだろう。だって自分の宿主を殺してしまっては自分が繁殖できないじゃないの。それより長い間潜伏出来て、宿主は気付かないまま自分を運んで多くの人や遠い場所で広めてくれなくちゃ。すぐにそれと分かるほど重病になって、致死率が高いウイルスに対しては宿主側(人間)の必死のバトルを繰り広げるけれど、単なる風邪なら人は放っておくわけでしょ。そして永遠に生き続ける…

H1N1はきっとやり手だという気がする。重病感がなくて、特別な治療なしに治った人も大勢いるとか。(重症だった方、これで亡くなられた方はお気の毒ですが。)
ウイルスは人とうまく共存しようとしているように見える。人はそれを食い止めることなんかできないんだ。これまでもこれからも。

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カリフォルニアの山火事

南カリフォルニアの山火事(wildfire)は未曾有の規模で燃えている。すでに何百家屋も焼き払い、25万人もの人々が避難を余儀なくされる状況だ。怖い事にはこの山火事は鎮火のめどが立っていない。すでに数年来の少雨で乾ききっている山林は空模様が変わって雨でも降らない事には、消防士による消火活動だけでは納まらない。野火の発生には特に理由など要らない。もちろんハイカーが落としたタバコの吸殻、などというものもあるかもしれないが、落雷とか、送電線が強い風に煽られて倒れたりしても起るし、それどころか、乾ききった樹木どうしの摩擦によっても火は起る。

南カリフォルニアの山火事は実のところ珍しくなくて、この季節には毎年起っている。サンタアナと呼ばれるかわいた風が、砂漠地方からシエラネバダを越えてカリフォルニアを吹き降りる。南カリフォルニアでは5月から11月というのは雨が一滴も降らないと言っていい乾期で、クリスマスの頃に雨季に入り、ようやく雨が降り始める。年によって雨季に降る雨の量にはずいぶんと差があるが、3月にもなると雨季は終わりだ。雨季の前のこの時期は空気がパリンパリンに乾いていて、そこへ持ってきて、サンタアナである。

この時期の天気は実に単純で、毎日ほとんど同じ。朝起きると平地は霧が深い。海からの湿った空気が冷え込んで(夜は寒い。昼間の暖かさ、暑さを打ち消すように冷え込む)、町は霧にすっぽりと包まれている、というのが毎朝の情景だ。そして日がだんだん高くなるとともに、このサンタアナが吹き降りてきて―私はこの名前の響きがすごく好きで悪者にされてしまうのが悲しいのだけれど―霧なんて吹き飛ばしてしまう。空は快晴、カラッカラに乾いた空気の中は紫外線もすいすいと通り抜ける。どっかで山火事が起りそうだ、と誰もが想像できる。

ただ、今回のはホントに規模が大きくて、衛星からの映像をみるとものすごい事になっているのがよく分かる。どうか、早く雨が降りますように。ルイジアナで降っている雨がどうかカリフォルニアに降ってくれますように、と祈ろう。それにしても自然は厳しい。自然に楯突こうとして無視する人間にたいして厳しいというべきか…

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この国で餓死なんて、許せない。

こんな事が現代の日本で起っているんだ。北九州市で起った52歳の無職の男性の餓死。生活保護を打ち切られて食べ物も買えず空腹に死んでいく。そしてミイラとなるほどに時が経ってようやく発見される。豊かに華やかに見える繁栄の国には、実は貧困の大きな罠があちこちにとぐろを巻いている事を国民は気付き始めているし、海外のメディアまでも注目している。これはNew York Timesの記事と写真。この男性のケースと他の類似もケースも紹介して、これが生活保護のモデル自治体とは、と驚いている。

残念ながら、生活保護の打ち切り後、貧困の中で餓死するというケースは初めてではない。自立自助が当たり前とされる我が国にあって、生活保護を憲法に保障された生存権と位置づけて前進させる大きな力になったのは、かの有名な朝日訴訟だった。生活保護は施しではなくて権利なんだ、憲法に保障された基本的人権なんだ、だからその額が不当に低い生活保護基準は憲法25条違反だという東京地裁の判決は、その後の日本の生活保護の夜明けのようなものだった。(この朝日訴訟は、一審で原告朝日さんの全面勝訴、二審で東京高裁は25条違反とまではいえないと請求を棄却、上告審途中で原告死去となっている。)

我が国では憲法の生存権についていつ習うんだろう、中学の時?かな。
25条第1項にはこうある。
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

英語で言うとこんな感じ。
All people shall have the right to maintain the minimum standards of wholesome and cultured living.

この25条に基づいて制定された生活保護法にはこうある。ここが大事だからね。

第1条 この法律は、日本国憲法第25条に規定する理念に基き国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。
第2条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護(以下「保護」という。)を、無差別平等に受けることができる。

第3条 この法律により保障される最低限度の生活は、健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない。

法の精神は、なぜ生活が苦しくなったかとか、過去の生活状態とか、そういうものに関わらずその時生活が困窮している人は誰でも皆生活保護を受ける事が出来る、というのが原則なのだ。

間違えてはいけない、酒の飲みすぎで身体を壊して働けなくなったのだから、自分の責任で、保護は受けられません、ではないのだ。理由や過去は問題ではない、現在の貧困が問題なのだ。

法の精神、原則はひとまず置くとして―なぜひとまず置くかというと、そうしないことには日本全国どこの自治体もこの精神に根ざした運用なんかやっていないわけだから、話にならないから―北九州市の例はひどい。NY Timesの記事だと、ケースワーカーには保護打ち切りのノルマが課せられていた話が紹介されているが、それは正直な所だと思う。担当のワーカーだけの責任とは言いたくないけれど、受給者に対して人間らしい対応が出来ていたか疑わしい。自治体一丸となって、保護の相談は水際で追い返す作戦(相談者の8割は申請書類さえ受け取れない)を取ったりしているのだから、保護の受給者などおそらく一般市民以下、として扱っていたのではないか。こんな自治体の例がモデルだったらしいから、国はそれを他の自治体にも広めようとしていた。生活保護は自治体が窓口になって支給するけれども、その財源の75%を握っている国の責任でもある。生活保護法に書いてあるでしょ、国の責任だって!

こんな事が私達の国で起った事に行政は恥じるべきだ。これを美しい国だ、などと嘯いている人は(もう辞めてしまったけれど)恥じるべきだ。こんな国にしてしまった国民は恥じるべきだ。

私は行政には宗教的要素は必要ないと思う。でも、行政を運用する人間には憐れみや慈悲の心は必要だと思う。私達の国は、19世紀末に鎖国から解かれて近代国家の道を歩み始めた時に、イギリスなど先進国から社会福祉を学んだ。お手本としたイギリスは、キリスト教的慈善の心と風土が何百年にもわたって国民一人ひとりに浸透してきた国だ。そういう土壌がないに等しい我が国では、とりあえず法律が出来ても、権利意識は薄い。本人もそうだし、周囲もそうだ。貧困は自分でまいた種、である。困窮したら、家族が、親戚が、遠い親戚が、助け合うのが当たり前である。本当に何も助けがないときに限って、お上が施しを与えてくれる、そんな風潮は今も昔も変わらない。朝日訴訟はもう40年以上も前になるけれど、その時と比べて生活保護に対する国民の意識はそんなに大きな変化はないんじゃないかと思う。受給者は二流市民的な。自分のせいでしょ、みたいな。

どうかな。こうして今ワーキングプア、とか問題視され始めた昨今、豊かそうに見える国の中での貧困の実態がもっと真剣に取り上げられるべきなんじゃないかな。貧しいのな自分のせい、一生懸命働いて将来に備える、それでも貧しかったらもっと一生懸命働いて…そうやってこの国を作ってきた私達日本人だけれど、汗水たらして働いて自分を戒め努力することで自らの首を締めてきたともいえないだろうか。だってその影で、汗水たらさずにいい思いをしている人たちだっていっぱいいる。貧しいのは国が、社会が悪いんだって、声を上げなければ。

今は苦しくても働けるかもしれない。でも働けなくなったら、使い捨てられるだけだ。こんな社会じゃいけないんだ。産業革命から何百年経ったと思ってるんだ。朝日訴訟から何十年経ったんだ。

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