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マスクと手洗いの怪

新型インフルエンザの影響で休校になっていた兵庫と大阪の学校がこの間から再開になって、その初日の映像がニュースで流されていた。

生徒たちは皆、マスク姿で登校している。いや、ほとんどがマスクをしているのだが、中にはマスクしていない生徒がいる。なぜかというと、関西一円ではこの騒ぎで誰もかれもがマスクを買いあさり(中には必要以上に買い占めた人も多い)、数日前からどこを探しても店頭にはマスクがない、という状態だったから、当然買いたくともマスクが手に入らなかったのだろう。

ところが、校門で生徒たちを出迎えた教師はマスクのない生徒のためにと、何枚ものマスクを手に持っている。何と用意周到な先生!と驚いていると、これが先生たち手作りのマスクと聞いてもうびっくり。!キッチンペーパーで作ったという。このマスクを手渡されて付けさせられている生徒の照れ笑いに、ニュースレポーターの『先生たちの愛情マスク』というコメントがかぶさっていく。

え?え?え?

これを見て(聞いて)疑問に思ったり、驚いたりしない方がおかしいと思うのだが、それは私だけだろうか?

さらに番組は(続けてみた次の番組だったかも)「いかに学校に『菌』を入り込ませないか」というテーマに進む。実際の小学校で子供たちが戸外から建物に入る時に行っている手洗いを映している。細菌感染の専門家がブレーンに付いての学校あげての取り組みだろうから、徹底されているのは想像できるけれど、子供たちは手洗いがうまい。まさか100%の子供がこうはいかないと思うけれど、平均的な子供でもこれくらいやっているんだろうと優に想像できる。

せっけんを使って、入念に洗う。指と指との間は言うまでもなく、爪ブラシを使ってしっかり汚れを落とす。水道の蛇口は次の人のためにきれいに水で流しておく。せっけんの周りに着いた泡には菌がいっぱいなので、泡は水で洗い落とす。洗った後は自分専用のハンカチで拭き、貸し借りをしない。

これが手洗いの基本で、給食の時は…出来るだけ話をしない…と番組は続いている―

ちゃんと教育すればできるもんだなあ、と感心するだろうか?私は言い知れぬ恐怖を感じたのだけれど…

1.感染予防にマスクが(完全には)役に立たないことは知られている事である。普通に製造されたマスクがである。キッチンタオルで先生たちの細菌だらけの手で工作された手作りタオルが、新たな細菌のバラマキ以外に何の役に立つと思っているのだろうか?そんなマスクは気休めどころかかえって不衛生であることを教師ともあろう人々が知らないとでもいうのだろうか?

2.おそらく先生たちは「たいして効果がないのは分かっているけれど、これは生徒に病気にかからないでほしいという先生たちの願いだからそれを感じ取ってほしい」とでも考えているのだろうか?それを「愛情マスク」と呼ぶなら、この愛情は仇になりかねない。マスクを作る代わりに手作りのお札でも配った方がまだしも衛生的だろう。お札は口で触れるものではないから。いづれにしてもいい迷惑だ。

3.この愛情マスクの伝えんとするメッセージはつまりこうだ。

実際には何の役にも立たないと知っている事でも立つと信じて皆でやれば思いは通じる。(宗教がかっている!?)これはオハライなのか?

さらに、たとえある生徒が、役に立たないマスクはしたくない、要らないと思っていたとしても、皆がすれば何が何でも同じようにする事が大切だ。出来ないならせめて従っているように見せる見せかけ(こそ)が重要なのだ!!

4.手洗いを見て背筋が寒くなるというのはおかしいだろうか?学校は、先生たちは、大人たちは子供たちにこう言っているのだ。外は細菌だらけだが、手を洗えばそれを洗い流せる。清潔こそ良いことだ。出来るだけ汚いものとの接触を避け(できるだけしゃべらずに食べろ)、汚いものが付いたら洗い流すのだ。それが病気にならない最良の方法だ。と。

5.この世は細菌だらだ。外の世界ばかりではなく、人間の体内にだって細菌は居る。細菌をなくすなんてできない。これまでもこれからも共存していくしかない。人間にとって「害のある菌」をやっつけようと思っても、菌の方でうわてを行っているじゃないか、変異を繰り返して次々に新しい種を生みだす。この新型インフルエンザはその一例にすぎない。人間には菌をやっつけることはできない。その事を子供たちに教えずして、「悪い」菌を撃退することが「善」であるかのように教え込むのは危険すぎないか?

6.子供たちの手洗いの「儀式」はまるで「禊ぎ(ミソギ)」だ。子供のころからこうやって徹底的に教え込まれたら、「清潔」=「善」で「不潔」=「悪」という図式が出来てしまう。「不潔」という言葉そのものがまさに日本的感覚の「清く正しい」ことの否定語なのだから当然だけれど、こう言ってもいい。「きれいにする行為を怠る、あるいはきれいにするよりも他の事を優先させること」=「悪」の図式である。日本人が持っている「うわべだけのきれい好き」志向だ。

7.きれい好きが高じると潔癖症だ。現実に無菌状態の世界はあり得ないのに、それを追い求めて国民みんなで手を洗っている姿は奇異に映る。病原菌に対して鎖国政策でも取ろうと思ったか、(それが可能ならおそらくそうしたに違いないが)、海外からの「汚染」を水際で食い止める事が出来るとでも思ったのか、見えない新型風邪に国をあげて翻弄され、悪戦苦闘している姿は、哀れですらある。その潔癖症の弊害は中にいると見えないが、外に出るとわかる。外に出る、と言ったが、潔癖症だと外に出にくくなる。外国は「日本の様な」清潔志向ではないからだ。

握手だってできないしね。人間同士の付き合いは所詮雑菌の交換だものね。

こんな学校おかしい。こんな社会おかしい。ケガレをミソギとハライで水に流そうとしている!ようにしか見えない。

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新型インフルエンザは水際で止められるか?

新しい感染症が国内に侵入するのを食い止め国民の健康と安全を確保する、と言えば聞こえはいいが、日本政府が躍起になって進めている水際作戦なるものはどこまで有効なんだろう?過去に例のない型のウイルスゆえに誰も免疫を持っていないから、ひとたび国内に侵入すれば重大な疾患が多数の人々に広がってしまう、それゆえ、国の中にウイルスを入れなければいい、というのは確かに道理があるように見える。

でもどうしてなんだろう、私にはいささかこれは非現実的で、しかも少しばかり利己主義のにおいが漂っている。

『水際作戦』は単なる時間稼ぎじゃあないの?

入ってこないようにする、のは良いけど、治療に対しての研究は?

国や地域を超えた人・物の往来が限られていた時代なら一国健康主義も貫けるかもしれないけど、これほどにグローバル化が進んでいる今日では、「海外に行くな」「日本に入ってくるな」規制は現実的とは思われない。

(なにもうちの息子が今週アメリカから帰ってくるから言ってるわけじゃなくって…)

(なにも、娘に会うために来週渡米を予定していたにもかかわらず、夫の会社が北米への渡航禁止を打ち出したことで、泣く泣く延期せざるを得なかったから言ってるわけじゃなくて…)

(なんだか十分に個人的な理由で不平不満をぶちまけている気がする…だってフライトのキャンセル料だけでも頭にきちゃう!
娘は「会社が個人の自由を規制するなんてできないよ!」と反論してきたけれど、もちろんアメリカ人には理解できないだろう。でも、それが日本の今だ。公共の福祉のために個人の自由は制限されるんだ…)

今回の新型インフルエンザ(H1N1)は今のところ弱毒型―もちろん弱毒型だからといって、感染が進む過程で変異を起こして強毒型に変身する可能性はあるのだけれど―で、それなら季節のインフルエンザと比べて特に深刻ではないわけで、通常インフルエンザに対して実に寛容とも思える我が国の、H1N1だけに対する敵視はなんだろう? (毎年インフルエンザの予防接種してますか?学童や高齢者、福祉施設、医療関係者以外はあまりしないでしょ。日本人って。私の経験ではアメリカではかなり多くの国民がインフルエンザの予防接種していたけど…彼らはこの日本の大騒ぎがなかなか理解できない…)

ウイルスはきっと日本に入ってくるよ。変異を繰り返して進化してきたつわものだから。ひっそりと潜伏して、たとえ今回ひとたび諦めても、辛抱強く待っていて、人が思いもつかない形で、あるいは忘れたころに、ひょっこりとね。感染症や免疫学の専門家には一蹴されるかもしれないけど、これは私の勘でしかないけど、患者を簡単に死なせてしまうほど強毒なウイルスは一見怖くてその実、余り優秀じゃあないんだろう。だって自分の宿主を殺してしまっては自分が繁殖できないじゃないの。それより長い間潜伏出来て、宿主は気付かないまま自分を運んで多くの人や遠い場所で広めてくれなくちゃ。すぐにそれと分かるほど重病になって、致死率が高いウイルスに対しては宿主側(人間)の必死のバトルを繰り広げるけれど、単なる風邪なら人は放っておくわけでしょ。そして永遠に生き続ける…

H1N1はきっとやり手だという気がする。重病感がなくて、特別な治療なしに治った人も大勢いるとか。(重症だった方、これで亡くなられた方はお気の毒ですが。)
ウイルスは人とうまく共存しようとしているように見える。人はそれを食い止めることなんかできないんだ。これまでもこれからも。

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回転扉

初めて回転扉に出会ったのは大人になってからだったと思う。数年前に悲壮な事故があった自動式の回転ドアじゃなくて、人が中で押しながら回る旧式のやつ。

アメリカでは意外とこのタイプのドアがあちこちにあって(日本ではあの事故以来回転ドアそのものが流行らないのだと思うけど)、出食わす機会も多かったように思う。回転扉の前に来ると妙にドキドキする。先に入って行った人が出たのを確認して、他の人が入ろうとしていないのを確認して、一人づつ入って回って出る、というのが正当な使用法だろうが、出入りの激しい出入り口ではそう悠長なことは言っていられない。うまく人の波のリズムに乗って同じリズムでドアの羽根の間に滑り込む。結構ドキドキする(した)ものだが、これはどう考えても危ないよね。いくら手動といっても、ドアは慣性によって回っているし、その同じリズムですり抜けようとする人々と阿吽の呼吸でバーを押すけれど、心配症の私は「ここでもし立ち止まってしまったらどうなるんだろう?」なんて余計な事を考えたりして緊張が増してしまったり。

子供を連れている時は本当に『一人づつルール』を守らないといけない。たとえ一マスの中に二人入れたとしても、親子で手をつないで一マスに入るのはだめだ。私はやってみたから知っている。手をつながなければ回転扉には入れないくらいの子供なら、親が抱っこしてやらないといけない。マスの中で子供は前に進むことが出来なくて転んでしまう。たとえゆっくりとでも動いている回転扉の中で転倒しようものなら大事故につながる。で、ある程度大きな子供なら、独立したマスを使う。一つのマスに一人、はもちろん、前の人が完全に向こう側に出てしまうまではマスに入らない。親子でも一人づつ。初めにママが入って向こうに出るから、出た後で合図するまでは絶対に入ってきちゃだめ、を徹底したものだ。

OKのサインをもらって回転扉を一人で回して出てくる時の子供の誇らしそうな顔といったら!

どうして回転扉の話なんかしたかというと、人生って回転扉みたいなものかな、と思うから。空間を仕切るドア。普通ドアは二つの異なった空間―内と外―を隔てるのが役割だ。だが回転扉はそれ自体空間を形成する。四角いフレームで囲まれた何枚かの羽根(扉)が回ることで、そこには内でも外でもない空間が形作られる。この羽根にはさまれてあるのは空気だけ、なのに、その空間は摩訶不思議な気がするのは私だけなのだろうか?(きっと私だけだ)

ドアのこっち側から何枚かのガラス越しに見ている向こう側は、これから自分が進もうとしている世界だ。でも、この回転扉を回して足を踏み入れる向こう側の世界は、ガラス越しに見ていたのとはどこか違う気がする。ひょっとして入るべき羽根を間違えたんじゃないだろうか、もし違う羽根に入っていたらこれとは別の世界に来ていたんじゃないだろうか―回転扉ってそんな妙な気持にさせる不思議な空間を作っている。羽根を回そうとしてバーに手をかける子供に一瞬だけ不安がよぎる。次の瞬間子供は決心した顔で両腕を延ばしてバーを押す。羽根が回って空気が動き、子供がドアのこっち側にはじけて飛び出す。ほんの一瞬の出来事だけれど、知らない世界に連れ去られたのじゃなかった、ママがそこに待っていてくれた、その安堵感と同時に、ささやかな冒険は何事もなく終わってしまったとかすかに失望も見え隠れしている。

(回転扉にこんなことを思うのはきっと私だけに違いないけれど)
人生はいくつもの回転扉を開けて行くんだろうと思う。開ける前には見えているはずの向こう側の景色が、開けてみると実は少し違っている気がするように、決断する前に思っていたのとは似ていてどこか違う道を歩んでいたりする。間違った、と分かる場合は多くないものだ。どこかで狂ってきたのかな、と思っても、どこで間違えたのかは分からない、きっと回転扉の入るべきマスを間違えたんだよ。どれも同じに見えるって?そう、だから間違えやすいんだよ。別のマスに入って別の羽根のバーを押していたら、ひょっとしたら違う道を進めたかもしれないのに。でもこれでおしまいなわけじゃない、まだこの先いくつも回転扉があるからね。今度こそよーく気をつけてタイミングを逃さないように…それだってやっぱり紛らわしくてよく分からないかも知れない。同じに見えるかもしれない。回りをよーく見て、他の人がちゃんと出たのを確かめて、自分を追い越して行く人がいないのを確かめて…それは前にやった、と言うなら、今度は別の入り方をやってみる?人の波のリズムにしっかり乗って…それとも今入ろうとしている他の人のマスに割り込んじゃう?

いくつもの回転扉を抜けているうちにだんだん上手になるだろう。最初はそうじゃない気がしていたけど今はこれが自分の進むべき道だ、と思えるようになるかもしれない。そのうち子供が回転扉を回すほど大きくなる。最初は「ママが先に行って、向こうで合図するから、そしたら入ってバーをしっかり押すのよ!」と教えてやる。そのうち子供は自分でタイミングを計って入れるようになる。ママの合図は要らなくなる。子どもは成長したんだ。でも、ある時子供の顔に不思議な失望が浮かんでいることに気付く。意図していた風景と違う風景をまあたりにしているんだ。子供に教えてやる方がいいんだろうか、回転扉の魔術のことを…よそう、子供は自分で扉を回せるんだ。ほらここから見えるよ。扉の向こうにいる君が。

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